温泉の成り立ちって?
現在、秋田県仙北市の田沢駅から路線バスで約1時間ほどの所にある玉川温泉は奈良時代の末期、西暦806年9月、海抜1336メートルの焼山火山の中腹が大爆発し、その爆発口から噴出した湧き湯と伝えられている。 |
爆発から約1200年もの間、休みことなくいたる所から凄まじい勢いで噴煙が立ち上り、ゴーゴーと音が鳴り響く地獄谷の辺り一帯は硫黄の臭いが霧のように漂いつづけている。 |
この地が発見されたのは江戸時代の初期の頃であるとされており、昭和の初期までは「鹿湯」と呼ばれていた。 |
玉川温泉の名所、大噴(おおぶき)の様子 動画2
画面中央の矢印をクリックすると動画が見られます。
大噴(おおぶき)と呼ばれる源泉からは毎分9000リットル(ドラム缶で45本分)の湧出量がある日本一の源泉で、この熱水は幅約3メートルの湯の川となり、川底に湯の華を沈殿させながら宿の大浴場に流れ込んでいる。 |
この地に昔から伝わる言い伝えとは?
言い伝えによると、下流に住んでいた猟師が鹿を弓矢で射ったところ、矢が鹿の足に当たったが致命傷とはならずに、逃げられてしまった。 そこで猟師は猟犬とともに、点々と落ちる血痕を根気強く辿って山奥へと入って行った。するとある湯滝の所に鹿が身を沈めて休んでいるのを発見。 |
このような森の奥へと鹿は逃げ込んでいったのだろうか。
鹿の傷は深いはずなのに逃げ足があまりにも速いので、不思議に思い鹿が身を休ませていた所に行ってみると、そこには源泉が湧き出していたという。 |
時代と共に移り変わって行くこの地の変遷を紹介!
江戸時代初期、出羽の佐竹藩が、この地に硫黄があるのを発見し、明治初年まで、火薬の原料として採掘・精錬が行われていた。明治17年には湯治場の許可を取得(旧名は鹿湯、渋黒沢温泉) |
ひっそりと難病の人々を見守り続けてきた薬師神社
源泉は強酸性泉のため、下流の水田にこの水が流れ込むと水が酸性化して、水田が荒廃した。このため、源泉から流れ出る水は玉川毒水と呼ばれていた。 |
玉川酸性水中和処理施設。これにより下流の水質が劇的に改善された。
しかし、これにも限界があり、現在では宿から約300メートル下流に「玉川酸性水中和処理施設」が建設され、平成元年から運転を開始している。 |
この温泉の生みの親って誰?
本格的な湯治場としてこの地を開発したのは、湯瀬ホテルを創立した関直右衛門。直右衛門は29歳の時に北海道で苦労の末、製材業や農場で成功して財を築き上げた人で、生家は湯瀬(現在の鹿角市)で関直旅館を経営していた。 |
現在の風景。写真の道を手前に進むと岩盤浴場、左に進むとホテルへと行く。
結局、治療を断念して北海道へ帰ることにしたが、その途中、郷里の湯瀬へ立ち寄る。この時、村人から鹿湯(旧名称)はいいという話が出て、直右衛門は鹿湯で湯治をすることになる。 |
今ではすっかり整備の行き届いた道が続く。これも関直右衛門の尽力があったからこそだ。歩くのさえ困難だった山地を切り開き、道路を整備するだけでも、当時は相当大変なものであったに違いない。この写真は田沢湖側からのアプローチ。
当時は現地までの道のりも、湯瀬温泉を午前4時にリュックを背負って出て、午後4時に現地に到着するという大変さだったという。 |